タジキスタン北部、スグド州の州都ホジャンド

元々ソヴィエト連邦タジク民主共和国の都市レニナバードであったことから、連邦内では特に国境を意識していなかったのであろうが、それぞれが独立してからはそうはいかない、国境が出来たのである。国境線の複雑さが負の遺産となっているが容易には変えようがない。フェルガナ盆地に位置するここホジャンドもそうだ。

タシケントから陸路でホジャンドへ

タシケントからホジャンドまでは直線で120km程度、タシケントから南下しシルダリア川の流域を遡るとフェルガナ盆地への入り口入る、その途中のOy-bek/Fatihabard 国境から入国する。そのまま、シルダリアに沿って進むとBekobodとなり、ここもタジキスタンの国境となっている。シルダリア川の上流はここからホジャンドを経てフェルガナ盆地へ達する。

タシケント市街地を抜けてしまえば農村地帯が広がり、交通量は少なく時間の経過がゆっくりとしている。時々、遠くに煙をはく工場が見えた。

オイベック国境 Oy-bek/Fatihabard 国境

国境までサーシャが迎えに来てくれた、そういう指示だったのだろう、ご苦労様だ。ウズベキスタン側もタジキスタン側も国境通過は並ぶことなく出入国管理書(タシケントの空港で書く書類)に記入し提出、特段問題なく通過した。ほとんど混んでいないし、外国人はいても2-3人だろう。タジキスタン側はもっと簡単に手続きが済んだ。

ウズベキスタン側の国境では、タジキスタン国籍なのだろうか、地元と人と思われる人々が荷物を担いで行き来していいた。タジキスタン側に住んでいるウズベク人ではという説明だった。タジキスタンで安く物品を仕入れてウズベキスタンで売るようだ。

タジキスタン側の国境管理施設はADBの融資により整備され真新しかった。ここでは仕事の関係もあり、国境施設の代表に挨拶した、それからもう一つの国境Bekabad/Platinaへ向かった。タジキスタン側はどこへ行くにも未舗装か舗装してあってもボロボロの道路であった。

Bekabad/Platina 国境-ダム・運河と日本人抑留者墓地

シルダリア川の近くに国境があった。タジキスタン側からアクセスしたので道路整備状況からルートが複雑だったが、ウズベキスタン側からならもっと簡単にアクセスできたのかもしれない。グリスタンから南下すればよいだけだから。

この辺り、Bekabadには日本人抑留者の墓があると聞いていた。墓地になってい小高い丘の下を通りかかる時に運転手がここに日本人墓地があると説明したが、タジキスタン側なので定かではないが、戦後、ダムや運河建設に従事した日本兵がいたことは間違いない。

シルダリア河畔のホジャンド

シルダリア川に架かる橋を渡るとホジャンドの中心街だった。といっても広々としている。この通りの両側に主要官庁や商業施設が配置されている。ソ連時代のままだ。ソ連時代はこの町は、Leninabad(レニナバード)と呼ばれていた。

Khojend−Kanibadan 国境

ホジャンドからフェルガナ盆地方面のウズベキスタンとの国境、平坦な道を小一時間、約80km走りKanibadan国境まで行った。この国境からウズベキスタンのコーカンドまで50kmの距離だ。途中、タジキスタンの海と呼んでいる「シルダリア川を堰き止めたKairakum貯水池」がある。長い辺で約40kmある。

ホジャンドの地理的な位置から、ウズベキスタンのフェルガナ盆地やタシケントへのアクセスが、タジキスタンの首都であるドゥシャンベへのアクセスよりよい。この付近の鉄道ネットワークもそうであり、ウズベキスタンを経由してている。これが、ソ連崩壊後の運輸交通問題の一つとなっている。

ホジャンドで宿泊したHotel SUGD

どんなホテルになるのだろうかと心配していたがけっこうまともなホテル、サーシャがアレンジしてくれたのだ。これが初タジキスタンのホテルとなった。

ホテルとしてはまだ新しそうなレセプションの対応だし、インテリアも新しさを感じた。部屋の種類は多様で私の部屋はかなり広い部屋だった。他に客はおらず、サーシャ、ドライバーとサウナを貸し切り状態とした。冬だったが暖房はしっかりとしており寒いということはなかった。(2007年2月)

179a Lenin Street, Khujand

Tel. +992-3422-4-1188

CARRERAのアウトレット

サーシャと運転手が「カレラ」、「カレラ」という、何だと尋ねるとイタリアンブランドのアウトレットがここにあり、そこに寄りたいということだった。ドゥシャンベではかなり良いお値段で売られているようだ。

郊外にでもあるのかと思ったらホテルの斜め前あたり、ホジャンドの中心の丸い建物がアウトレットだった。カジュアルウエア中心、ジーンズやシャツなどが並んでいた。サーシャと運転手

元経済省役人の運転手

この時、活躍したのは車持ち込みの運転手だ、車はランドローバー、かなり古くなっているが十分使用に耐える。この手の車を探すのはタジキスタンでは容易ではない。彼は運転手と言っても元タジキスタン経済省の役人、日本にも業務出張した経験があり、タジク語、ロシア語、英語を話す。スピンアウトして観光会社を自営し国境超え専門にしているので何かと詳しい。役人の給料では生活ができないと漏らしていた。

某援助機関がこのルートのために彼を重宝していたが、タジキスタン航空の搭乗禁止からホジャンド-ドゥシャンベを利用しなくなり、ただ、相当高い料金を請求していたので、淘汰と呼ぶべきだろう。

サハロフ博士と核実験

ソ連時代、この付近に核関連の指令センターがあり、核実験のゴーサインはここから発令されたとどこかに書いてあった記憶、その核関連研究者にサハロフ博士もいたとあった。調査中。

ホジャンド−ドゥシャンベM34ルート

ホジャンドから3000m級の二峠越えでドゥシャンベへ抜けるルートがある。冬季は通行止め、2007年現在、トンネル工事中だった。夏季に踏破したいルートだ。

アレキサンダー大王が建設した都市ホジャンド

紀元前6世紀、古代ペルシア人の城砦が築かれ、古代ギリシア人はこれをキロポリ、またはキレスハタと呼んだ、その意味は、古代ギリシア語で「果て」、「最後の」であった。

紀元前329年、アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)がギリシア人の入植地をJaxartes川、現在のシルダリア川(Syr Darya)の南に建設した。これを、ギリシャ語名で「Alexandria Eschate」(Latin: Alexandria Ultima, English meaning "Alexandria the Farthest")若しくは Alexandria Eskhata、アレクサンドリア・エスハテ(最果てのアレクサンドリア)と呼び、シルダリア川北方のスキタイへの砦とした。

その後はペルシア帝国に組み込まれる時代が続き、8世紀にアラブの領地となる。この頃からホジェンドと呼ばれるようになった。10世紀には中央アジアでも有数の都市となり、モンゴル帝国の侵略には耐えるが、ティムール朝の支配を受ける。

ブハラ・ハン国の時代を経て、1866年、ロシア帝国に領有される。1936年、ソ連邦時代にレニナバードに改称されるが、1991年、ソ連邦の崩壊とタジキスタン共和国独立に伴いホジェンドの名に戻った。

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