シャストリインド首相の客死 "Shastri Street" in Tashkent

住まいの近くにShastri Streetという名の通りがある。独立後、多く通りの名前が変わったが、この通りはソヴィエト時代と同じだ。タシケントの中心を指すTs1(第1区)にアムール・チムール公園(旧革命広場)を中心として同心円状に環状道路(180度程度)があるが2番目の通り、日本大使館前の通りをAzimov Str.といい、その先をZhukovsky Str.そして、Pushikin Str.までをShastri Str.という。 Zukovsky Str.からShastri Str.に変わる交差点の角がオープンスペースになっており交差点に向かってインド第3代首相Shastriの胸像が建てられている。

なぜか、ウズベキスタンの人はこれをガンジーだというがまあインド人には変わりないが紛らわしい。Shastri、記憶の彼方で聞いたような名だと思い調べてみた。

第3代インドShastri首相、タシケントで客死

インドとパキスタンが戦闘状態に入った後、第三代インド首相のシャストリとパキスタン大統領Muhammad Ayub Khanはソヴィエト連邦のコスイギン首相により開催されたタシケントでの会議に出席し、1966年1月10日、シャストリとハーンはタシケント宣言に合意した。その翌日、シャストリは2度の心臓発作により死亡した。

シャストリ死亡のミステリー

公式にシャストリは心臓発作で死亡したとされているが、未亡人Lalita Shastriは、夫は(証拠はないが)毒殺されたと断言している。それは夫人だけではなく多くがシャストリの死亡後、身体が青色に変わったことを根拠として毒殺されたと信じた。確かにシャストリに付き添ったロシア人執事は毒殺容疑で逮捕されたが、その後、無罪で釈放されている。

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