タシケント日本人抑留者墓地(Yakkasaray)
タシケントに日本人抑留者墓地があるのを知ったのは、1996年2月、初めてウズベキスタンへ出張した時になる。調査団長が満州からの引揚者で、タシケントに抑留者の墓があり、是非、墓参りをしたいという希望があったので現地行程を手配したUzbektourismの案内でタシケント市内のヤッカサライ市民墓地の一角にある日本人墓地へ調査団一同で墓参りをした。
それから10年余、2009年8月1日、我々有志はミラバットバザールで白い花を調達し、ヤッカサライ日本人抑留者墓地へ墓参を行った。現在、ウズベキスタン日本人会が毎年8月15日の終戦の日に在留邦人とともに墓参を行っている。
タシケントに眠る日本人抑留者
タシケント市南東地区、ヤッカサライ通りに位置する公営墓地の一角が日本人抑留者墓地として整備されている。太平洋戦争終結直後(ポツダム宣言受諾後)、8月8日に参戦したソヴィエト連邦により、中国東北地方、樺太や北方領土にいた日本兵約57.5万人(平和祈念展示資料館)がスターリンの指示により強制的にソヴィエト連邦内のシベリアや中央アジアへ移送され、厳しい環境の下、強制的に労働力として徴用され、その間に約6万人の命が失われた。
山崎豊子著「不毛地帯」は瀬島龍三をモデルとしていると思われるがフィクションながらその取材の詳細さから抑留生活の厳しさがよく表現されている。
ソヴィエト連邦を構成するウズベキスタンでは、日本人抑留者のうち2万3千人が移送され、強制的に労働力として使役され、817名(在ウズベキスタン日本大使館)が帰らぬ人となっている。
タシケント市営ヤッカサライ墓地には、タシケント市より79名、タシケント地区墓地より8名、計87名の日本人が 眠る。ソヴィエト時代は土を盛っただけであったがウズベキスタン独立後、遺族関係機関の支援やウズベキスタン政府の協力により、現在のような戦没者名と出身県を刻印した墓石が設けられ、敷地内にはウズベキスタン各地に点在する日本人抑留者墓地の共同慰霊碑が設営されている。隣接してドイツ人抑留者墓地がある。
慰霊碑には1990年5月23日、もうひとつに碑には1995年10月1日の日付が刻まれている。両方とも福島県という文字が読めるが、タシケント地区での戦没者には福島県出身者がいるものの多いということはない。後にこの関係を福島県出身者に聞いたところ、ソ連崩壊後に国ごとに県の遺族団体を割り当てたということのようだ。
(写真、2009年8月1日に墓参したとき)
ウズベキスタンの日本人抑留者墓地
抑留者の墓地は、ヤッカサライの他、タシケント市内のヤンギュリとハムジェンスキイに墓地がある。ウズベキスタン国内ではタシケント州アングレン市、チルチツク市、ボスタンデクス市、ベカバード市、フェルガナ州コーカンド市、フェルガナ州フェルガナ市、アンディジャン州アンディジャン市、ブハラ州カガンなど13ヶ所に日本人墓地がある。タシケント第四ラーゲリーの約500人の抑留者がウズベク人やロシア人とともに建設に従事し工事が中断していたナボイバレエ・オペラ劇場(タシケント)が1947年に竣工したことはよく知られている。
日本人抑留者が従事したナボイバレエ・オペラ劇場、他
ナボイ劇場は1947年に竣工、延べ床面積 15,000 平方メートル,観客席 1,400 で煉瓦(れんが)造りのビザンチン建築である.日本人抑留者は,土木,煉瓦積み,彫刻,鉄工,配線,大工,左官,電気溶接,測量など多岐にわたっていた。(Alisher Navoi Opera and Ballet Theatre)
その他、タシケント市内には日本抑留者が建設に従事したという建物がいくつか残っている。現在、大学として使われているWestminster University in Tashkent (WIUT)のメインビルディング(大学のロゴに利用されている)は元空軍士官学校でこの建物も抑留者が建設に従事したようだ。
タシケント日本人墓地の場所
タシケントYakkasaray地区の市民墓地内にある。Grand Mir Hotelを背にして右方向の大通りをしばらく行った右側、徒歩ではかなりあるのでトラムかバスかタクシーだろう。タシケントの人なら誰でも知っているので聞けばすぐにわかる。
シベリア抑留中死亡者名簿
元抑留者の村山常雄さんが平成19年(2007年)7月に「シベリアに逝きし人々を刻す」題するソ連抑留者死亡名簿を刊行されました。その名簿によれば45,815名が亡くなり、ウズベキスタンでは収容された2,456名のうち876名が亡くなっている。なお、ソ連における日本人収容所はシベリアから西はウクライナまで広範囲にわたる。
第26収容所 〔アンヂジャン地区〕 33名
第288収容所 〔ベカバード地区〕 147名
第360収容所 〔ボスタンデグスキー地区〕 13名
第367収容所 〔コーカンド地区〕 241名
第372収容所 〔アングレン地区〕 134名
第386収容所 〔タシケント地区〕 261名
所属不明 47名
リンク
- 平和祈念展示資料館 労苦体験手記-シベリア強制抑留者が語り継ぐ労苦(抑留編)
独立行政法人 平和祈念事業特別基金平和祈念事業特別基金編集 戦後強制抑留史- 日本国政府とウズベキスタン政府との間の抑留中死亡者をめぐる人道分野における協力(仮訳)
古里を遠く離れ生きた年月は(西日本新聞社)終戦から復員までの記録- 夕鶴が舞ったナボイの夏
第二次大戦後ウズベキスタンにおいて抑留された日本人の記念展示- ウズベク「ナボイ劇場」のオペラ公演に感激(ナボイ劇場建設に携わった元日本兵、元タシケント第四ラーゲリ日本軍隊長、永田さんの寄稿
日本ユーラシア協会抑留問題中央アジア地区日本人捕虜収容所一覧- シベリア抑留中死亡者名簿