タシケント大地震1996年と震災復興都市計画について

タシケントの町並みは1966年4月のタシケント大地震の後実施された震災復興都市開発により枠組みが出来上がったと推察され、公開されている情報からタシケント大地震とその後の震災復興都市計画について考察してみた。

大地震とタシケント復興都市計画

1966年4月26日、タシケントは直下型地震(7.5 on the Richter scale)に直撃され、旧市街の高密度住宅地において約78000戸に及ぶ日干しレンガ造りの家屋が崩壊し30万人以上が家屋を失った。

ソヴィエト共和国はフィンランドなどの国と同様に友愛救援隊(Battalions of Fraternal Peoples)と都市計画技術者を復興のため地震で崩壊したタシケントへ派遣した。彼らは街路樹が配置された幅広い道路や公園、軍事パレードが出来る大広場、噴水、モニュメント、多数の集合住宅等の「社会主義都市モデル」を計画した。1970年までに10万個の集合住宅が建設され、その後、都市開発はチランザール(Chilonzar)地区、北東地区及び南東地区及びタシケント市域が拡大した。

地震の記録

ソヴィエト崩壊後のタシケント

ソヴィエト連邦が崩壊した1991年当時、タシケントはソヴィエト連邦の中で第4番目に大きい都市(人口)であり、科学技術の中心都市であった。また、タシケントは代表的なソヴィエト都市であるが2000年以上の歴史とシルクロードの中継基地としての痕跡を若干の残す。現在、タシケントはマイノリティとなったロシア系住民を含むウズベキスタンにおいて最も国際的(コスモポリタン)な都市である。

タシケントは1966年の大地震による復興都市計画により、街路樹が配置された広い道路、数々の噴水、公園などゆったりとした都市の印象を受けるがややスケールアウトしているのではと感じるほどだ。

タシケントは独立後、基本的な都市構造に変化はないが、多くのビルが新築されたり改装された。また、市内各地にビジネス地区が形成されている、その代表的な例が、Intercontinental Hotelや22階建てのNBU、International Business Centre、国際展示場を含む一角である。

タシケントの市街地の拡大

準備中

Source:wiki ( the Geographical Atlas of Tashkent (Ташкент Географический Атлас, Москва 1984) |Date=2008-11-07 |Author=Guy Cosnahan)

 

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