ヌクスとムイナック(カラカルパキスタン)について

 仕事の合間にちょっとという具合にウズベキスタンの見所に迫ってみました。2007年2月初旬から3月下旬、それから2009年2月以降、タシケントに滞在、若しくはベースにしている関係でタシケントが日常の住まいになっている。シルクロードの歴史都市、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、シャハリサブス等があるが、それは概ね観光ツアーにお任せするとして、私の視点ではやはりタシケントという都市に興味が沸きます。そこに暮らす人々と生活のベースとなる都市、それはどんなものか、それから、ソ連時代のモニュメントや建築など、新旧織り交ぜながら探求してみたいと思います。

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カラカルパキスタン共和国 Karakalpakstan

ウズベキスタンの中にある自治共和国で、法的な枠組みではウズベキスタン共和国とカラカルパクスタン共和国との関係は、ウズベキスタン共和国憲法の枠組みの中において、両国の締結した条約と協定によって調整され る。カラカルパクスタン共和国は、カラカルパクスタン国民全体の国民投票に基づいて、ウズベキスタン共和国から脱退する権利を有する、と憲法第1条に規定 している。つまり、ウズベキスタン憲法の枠を超えることはできないし、外交権なども有していない。

歴史

1924年 民族境界画定により、旧ヒヴァ・ハン国領の一部、およびロシア帝国領だったザカスピ州、 シルダリヤ州の領域の一部からカラカルパク自治州(自治州とは民族自治地域のこと)が設置され、現在のカラカルパクスタン共和国の領域が成立した。

1925年 初めて世界地図に現れる。カラカルパク自治州は、当初(1930年)キルギス自治ソビエト社会主義共和国(現在のカザフスタン)の管轄下に置かれた

1932年 カラカルパク自治共和国に昇格した。
1936年 ウズベク・ソビエト社会主義共和国管轄下のカラカルパク自治ソビエト社会主義共和国に移管された。

1991年 ウズベキスタンの独立後、1992年にカラカルパクスタン共和国に改組された。

社会経済

人口:約171万人(2013年)、首都ヌクスの人口は
民族構成:ウズベク人がもっとも多く36%、次にテュルク系カラカルパク人が32%、そしてカザフ人が25%となる。他にトルクメン人、ロシア人、タタール人、沿海州から移住させられてきた朝鮮族(高麗人)などが居住する。

言語:カラカルパク語、ウズベク語、ロシア語

人口動向:近年、カザフ人はカザフスタンへ、ロシア人や朝鮮族はロシアへ移住する傾向にある。タタール人やウズベク人は親類を頼ってウズベキスタンの首都のタシケント等の生活水準の高い都市へ移住が見られる。したがって、共和国の人口は減少する傾向にある。

宗教:住民の大半はスンナ派のイスラーム教徒、ロシア人や朝鮮族はロシア正教徒である。

経済:農業が主要産業、綿花、米、メロンなどの農産物の生産に支えられている。かつてはアラル海での漁業があった。クングラードの西方で中国資本による苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)生産工場が最近稼動を開始した。南部のトルトクール行政区では、旧ソ連時代には原油を産出していた。

行政単位:12の地区(都市、カラ)、16の町(ポショルカ)、120の村(アウル)から構成される。

ヌクス Nuks

Karakarpakistan Museum of Arts

カラカルパクスタン自治共和国の首都

by Picasa

Nukusのホテル

まだ新しそうなホテル、B&BでUSD30。

Hotel Jipek-Joli

Tel.;998-61-222-1100, 222-3452 Fax. 222-8500

http://www.ayumtour.com

リンク

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