サマルカンドについて
1996年2月に初めて滞在した、その次が2007年に、2010年はタシグザールの復路に宿泊した。往路は通過のみ。その記憶を。
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マラカンダ→アフラシアブ→サマルカンド Samarkand
マラカンダ
紀元前10世紀頃からイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"で最後まで抵抗したとある。
ソグディアナは、イランとの政治的文化的なつながりが深く、アケメネス朝時代の紀元前6世紀にはペルシア帝国に併合されてその地方州となった。この時、ソグディアナにアラム文字が持ち込まれ、のちにソグド語がアラム文字で表記されるようになった。
アケメネス朝の滅亡後はマケドニア王国のアレキサンダー大王に征服され、その死後は南に位置するバクトリアの地方州とされた。
アフラシヤブ
712年、クタイバ・イブン=ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。
751年5月から9月、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦闘である。
759年、中国人捕虜の中に製紙職人がおり、7サマルカンドに製紙工場が開かれてイスラム世界に製紙法が伝わった。
アフラシヤブはソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。
しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄した。
モンゴルの報復
オトラルの悲劇、このホレズム王国によるモンゴル使節団の大虐殺がモンゴルによるホレズム王国への報復に繋がり、サマルカンドを全壊させた。
1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。当時の旧サマルカンドは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在の市街地の北側にある。
サマルカンド モンゴル襲来以後の歴史
14世紀末から15世紀にかけてはティムール朝の首都として繁栄した。市内にはティムールの墓廟であるグーリ・アミール廟やビビ・ハヌム・モスクなどが、アフラシヤブにはシャーヒ・ズィンダ廟群が築かれ、郊外にはティムール朝の王族やアミール、廷臣らが大小さまざまな庭園や牧場、宿営地などを設けられた。
ティムールの孫ウルグ・ベクの時代に天文台が築かれた
サマルカンド文化交差路-世界歴史遺産
サマルカンドは青の都と呼ばれ青タイル張りのモスク、マドラセ、廟など歴史的な建造物が多く現存する。また、天文学者であったウルグベク天文台跡など世界の
旧サマルカンド アフラシアブ Afrasiab
ソ連が香るサマルカンド
ペデストリアン・ウォーク、TsUMなど。
シャハリサブス Shakharisabz
チムール帝国の都
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