都市タシケントとソヴィエト連邦
仕事の合間にちょっとという具合にウズベキスタンの見所に迫ってみました。2007年2月初旬から3月下旬、それから2009年2月以降、タシケントに滞在、若しくはベースにしている関係でタシケントが日常の住まいになっている。シルクロードの歴史都市、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、シャハリサブス等があるが、それは概ね観光ツアーにお任せするとして、私の視点ではやはりタシケントという都市に興味が沸きます。そこに暮らす人々と生活のベースとなる都市、それはどんなものか、それから、ソ連時代のモニュメントや建築など、新旧織り交ぜながら探求してみたいと思います。
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タシュケントTashkent
タシケントは中央アジアで唯一地下鉄が運行している都市(アルマティとアスタナは現在建設中)であり、ソ連構成国家の中で最大の広場(Independent Square)を有し、最も長身のレーニン像(30m)を有していた。しかし、独立後の1992年、レーニン像の代わりウズベキスタンの地図を表した地球儀に据え変わっている。
タシケントに関する英語文献は非常に少ない、露語ではどうだろうか、ここで能力のなさが露呈してしまうのだが、露語を解せたら情報が多く手に入ることだろうかと思うが、そんなことを言っても先に進まない。限られたネット上で公開されている情報や数少ない英語文献などを参考としてタシケントという都市を少し掘り下げてみた。やはり、歴史からのアプローチが重要だ。
タシケントの年表
10世紀末頃、カラハン朝から「タシュケント」の名が現れる。中国『後漢書』では石国と呼ばれた
1214年、ホラズム・シャー朝に破壊される
1219年、チンギス・ハーンに破壊される。しかし、ティムール朝、そしてシャイバーニー朝によって町は再建された。
1809年、タシュケントはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
1865年、帝政ロシア軍が夜間攻撃で侵攻、防御が堅固で激しい戦闘となったが制圧に成功、ロシアはタシュケントを直轄領に組み入れた
1867年、帝政ロシアによりトルキスタン総督府が設置され、中央アジア支配の拠点となった。旧市街の外側にロシア人の住む新市街ができ、ロシア人商人などが続々と移住してきた。また、中央アジアをめぐるロシアと英国の衝突で、スパイの暗躍する町となった。
(グレートゲーム)
1874年、トルキスタン軍管区設置
1889年、カスピ海横断鉄道延伸などの新事業に従事する労働者階級のロシア人は、やがてロシア革命の中央アジアでの担い手となっていった。
1917年、ロシア革命が起こるとトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国の首都となり、再び中央アジアをめぐるロシアと英国が衝突し、英国のフレデリック・ベイリーらスパイの暗躍する町となった。
1924年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入、
1930年、タシケントがサマルカンドに代わって首都となる。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの侵攻を受けたヨーロッパ・ロシアから工場が疎開され、市の工業化が進み、ロシア人の割合も急増していった。
第二次大戦後、シベリア抑留となった日本兵捕虜(ドイツ人捕虜もいた)が各地に収容された。中央アジア最大のバレエ・オペラ劇場であるナヴォイ劇場、公共建築、道路、運河工事等に従事した。
1966年4月26日、市内を震源とする直下型地震(7.5 on the Richter scale)が発生し、78000棟の家屋が倒壊した。地震後、ソ連邦により計画的な都市が建設された。最盛期にはソ連で4番目の人口を誇る大都市に成長した。
帝政ロシア以前のタシケント
タシケントはソグド語・ペルシャ語で、「シャーシュ(チャーチュ)」、アラビア語で「シャーシュ」、中国では『後漢書』に石国とと呼ばれた。
10世紀末頃カラハン朝から「タシュケント」の名が現れ、1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・ハーンにそれぞれ破壊される。しかし、ティムール朝、そしてシャイバーニー朝によって町は再建された。
1809年、タシュケントはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
帝政ロシア時代のタシケント
1809年、タシケントはコーカンド・ハン国(the Khanate of Kokand)の支配下になった。その当時、タシケントは人口約10万に達し、ロシアとの貿易を通して繁栄し中央アジアで最も裕福な都市であったが、コーカンド・ハン国の重税に苛立っていた。タシケントの聖職者はコーカンド・ハン国を越えてブハラ・ハン国による統治を望んだが、ブハラの君主が好機を掴む前にロシア軍が到着した。
1865年5月、Mikhail Grigorevich Chernyayev (Cherniaev)は皇帝の命に反して1000人強の兵で周囲25kmの城壁、11の門、3万人の守備兵で固めるタシケントへ夜間奇襲をかけた。
小規模兵力による陽動作戦の間、十字架だけで武装したロシア正教聖職者から構成される主要部隊が城壁を貫いた。防衛体制は強固であったがロシア軍は二日間に及ぶ激しい戦闘の末、コーカンド・ハン国の支配者であったAlimqulを含む数千人の敵兵を死亡させたのに対して25人の兵力を失っただけでタシケントを陥落させた。
チェルニャエフ(Chernyayev)はタシケントの長老から「タシケントのライオン」と命名されタシケント市民の心を捉えることを実施した。そして、コーカンド・ハン国時代の重税を1年以内に撤廃し、非武装で通りやバザールでの一般大衆との面談を通して自分自身をタシケント軍事総督に指名し、タシケントを帝政ロシアの保護領とすることをロシア皇帝アレキサンダー2世へ上申した。
皇帝は気前よくチェルニャエフ(Chernyayev)と彼の部下に叙勲とボーナスを与えた。しかし、大砲を損失する衝動的な将軍とみなされ、Konstantin Petrovich von Kaufman将軍に交代させられた。
独立からは程遠いが、タシケントは、カウフマン将軍が初代総督を務めるロシア領トルキスタンの首都となった。ロシア軍の兵舎とロシア人居住区が旧市街のアンホール(Ankhor)運河の対岸に建設され、ロシア人と商人が流入した。帝政ロシアはヨーロッパ的な町並みの新市街を造り、中央アジア経済の中心都市としても発展した。
タシケントは帝政ロシアと大英帝国との間で繰り広げられたグレート・ゲームのスパイ活動の中心地となった。1889年、カスピ海横断鉄道(The Trans-Caspian Railway)がタシケントまで延伸され、その後、鉄道労働者はタシケントに住み着いた。同時に、ボリシェビキ(社会民主労働党、後の共産党員)を持ち込んだ。
20世紀初頭のタシケント
ロシア帝国の崩壊とともに、暫定政府は全ての宗教と民族を基にした規制を解除し、タシケントでの2月革命へ熱狂へ寄与した。兵士や労働者の社会主義評議会が直ぐに設立されたが、タシケントの2割を占めるロシア系住民の代表が中心となった。
イスラムのリーダーは旧市街をベースにタシケント・イスラム・カウンシル(Tashkand Shura-yi-Islamiya)を設立し、1917年3月10日、赤旗を掲げたロシア人労働者の行進、数千人の中央アジアの人々と共にロシア兵はLa Marseillaiseを歌いながら行進した。
Aleksey Kuropatkin総督は悲しみを"Long Live a great free Russia"という言葉で数々のスピーチの後締めくくった。最初のトルキスタン・イスラム会議は1917年4月16-20日にタシケントで開催され、イスラム・カウンシル同様、イスラム改革者(Jadid)によって占められた。
しかし、タシケントのUlemaを周辺を中心とした保守的な派閥が現われ、この派閥は1917年7月の地方選挙において勢力を伸ばした。彼らは、ロシア系保守派と同盟を結成したが社会主義者はより急進的であり、1917年9月に影響力を排除しようと試みたが不成功に終わった。
1918年4月、タシケントはトルキスタン・ソヴィエト社会主義自治共和国(Turkestan ASSR)の首都となり、新体制は白軍(basmachi)、内部的な反乱、そしてモスクワからの追放令により脅かされた。1924年、ウズベク・ソビエト社会主義共和国に編入され、その首都となった。
ソヴィエト時代のタシケント
タシケントでは1920年代、1930年代に工業化が開始され、特に第二次世界大戦中はナチスドイツの占領からソヴィエトの工業生産能力を保護するためにロシア西部からの工場移転に伴い非常に産業が成長した。そして、ロシア系住民の数も戦争地区からの疎開に伴い急増し、タシケントの人口は100万を超えた。その結果、タシケントのロシア系住民の比率が約50%になった。
ソヴィエト連邦が崩壊した1991年当時、タシケントはソヴィエト連邦の中で第4番目に大きい都市(人口)であり、科学技術の中心都市であった。また、タシケントは都市として2000年以上の歴史とシルクロードの中継基地としての痕跡を若干の残すソヴィエト都市である。
タシケントの建築
Due to the destruction of most of the ancient city during 1917 revolution and, later, to the 1966 earthquake, little remains of Tashkent's traditional architectural heritage. Tashkent is, however, rich in museums and Soviet-era monuments.
Alisher Navoi Opera and Ballet Theatre (The Bolshoi Navoi Theater)
Built by the same architect who designed Lenin's Tomb in Moscow, Aleksey Shchusev, and built with Japanese prisoner of war labor in World War II
Museum of Repression
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