ウズベキスタンの歴史 Brief History of Uzbekistan
タシケントを掘り下げる前にウズベキスタン、この国境線はソ連時代に確定したものであるが、現在のウズベキスタンの範囲の歴史を認識しておこうと思う。都市としては現在の首都タシケントよりもソグディアナと呼ばれたサマルカンドが紀元前4世紀まで遡る歴史があり、その後のティムール朝の都として栄えたこともありサマルカンドには歴史的な遺構も多く残っている。
その後、アラブが侵入し、イスラム化が始まり、オトラル事件を契機としたモンゴルによる征服、チンギス・ハーンの末裔であるティムール朝勃興、そして、近代のロシア帝国による征服へ繋がる。
Tashkent | Samarkand | Bukhara | Khiva | Nukus-Moynaq | Fergana Valley
ウズベキスタンの歴史 Chronological Table
紀元前4世紀 | アレクサンドロス大王により制圧 |
紀元前250年頃 | グレコ・バクトリア王国成立 |
1~3世紀 | クシャーン朝による支配 |
6世紀中頃~ | テュルク系遊牧民(突厥)の侵入、次第に住民のテュルク化が始まる |
7世紀 | ソグド人の活動が最盛期に |
8世紀以降 | アラブ勢力の侵入、イスラーム教の受容 |
9世紀後半~10世紀 | サーマーン朝成立(文芸・学問の発展) |
13世紀 | モンゴル帝国の支配 |
14世紀後半~15世紀 | ティムール帝国(首都サマルカンド)成立 |
15世紀末~16世紀 | 遊牧ウズベク集団の侵入、シャイバーン朝の成立 |
18~19世紀 | ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国の支配 |
1860年~1970年代 | ロシア帝国による中央アジア征服 |
1867年 | ロシア帝国、タシケントにトルキスタン総督府を設置し、植民地統治を開始 |
1918年 | ロシア連邦共和国の一部としてトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国成立 |
1920年 | ブハラ人民ソビエト共和国、ホラズム人民ソビエト共和国成立 |
1924年 | 中央アジアの民族・共和国境界画定によりウズベク・ソビエト社会主義共和国成立 |
1989年6月 | フェルガナ事件(ウズベク人とメスフ人の民族間衝突) |
1990年3月 | カリモフ大統領就任 |
1990年6月20日 | 共和国主権宣言 |
1991年8月31日 | 共和国独立宣言、「ウズベキスタン共和国」に国名変更 |
1992年12月 | カリモフ大統領再選 |
1995年3月 | 国民投票によってカリモフ大統領の任期延長 |
2000年1月 | カリモフ大統領再選 |
2005年5月 | アンディジャン事件 |
2007年12月 | カリモフ大統領再選 |
(外務省)
ソグディアナと呼ばれたサマルカンド Marakanda and Sogdiana
サマルカンドの歴史 Brief History of Samarkand
マラカンダ Marakanda
紀元前10世紀頃からイラン系民族のオアシス都市として発展し、ギリシャ史料では紀元前4世紀にソグド人の都市「マラカンダ」は、アレクサンドロス3世率いるマケドニア王国遠征軍に近郊の "Sogdian Rock"で最後まで抵抗したとある。
ソグディアナは、イランとの政治的文化的なつながりが深く、アケメネス朝時代の紀元前6世紀にはペルシア帝国に併合されてその地方州となった。この時、ソグディアナにアラム文字が持ち込まれ、のちにソグド語がアラム文字で表記されるようになった。
アケメネス朝の滅亡後はマケドニア王国のアレキサンダー大王に征服され、その死後は南に位置するバクトリアの地方州とされた。
アフラシヤブ Afrasiab
都市国家の連合体であったソグディアナではサマルカンドの支配者が、時には都市国家連合全体の盟主となることがあり、8世紀初頭にはサマルカンド王デーワーシュティーチュが「ソグドの王」を名乗っている。
712年にクタイバ・イブン=ムスリムによってウマイヤ朝のアラブ連合軍に征服され、イスラーム化が始まった。
アフラシヤブはソグド人の町としていくつもの王朝の支配を受けながらも数世紀にわたって繁栄を続けてきた。ホラズム地方は、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたことから、通商路として繁栄した。
しかし、ホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、オトラル事件により、1219年、モンゴル帝国によってアフラシヤブは徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。
当時のアフラシヤブは、ラフマト川に南面するアフラースィヤーブないしアフラシヤブ(の丘)と呼ばれ、現在のサマルカンド市街地の北側にある。
タシケントの歴史は紀元前2世紀から-Ming Urik
タシケント駅に近い街の中に「ミング・ウリック(Ming Urik):千の杏」という遺跡がありまます。紀元前2世紀頃の火と太陽を尊ぶゾロアスター教の寺院と当時の王宮の遺跡です。発掘調査によりタシケントが2200年の歴史を持つ町だということが明らかになった。この遺跡は、現在、屋外博物館として一般公開されている。
Ming Urik
Working hours: daily from 9 till 18.00
Working days: Monday-Friday
Shakhrisabz St., Tashkent
http://www.advantour.com/uzbekistan/tashkent/history/ming-urik.htm
タラス河畔の戦い-天下分け目の戦いと製紙技術の伝播 Battle of Talas
751年5月から9月、中央アジアのタラス地方(現在のキルギス)で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って行われた天下分け目の戦である。その際、中国人捕虜の中に製紙職人がおり、759年、サマルカンドに製紙工場が建てられイスラム世界に製紙法が伝わった。
この戦い以降、中央アジアにイスラム勢力の安定支配が確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まっていった。
きっかけは、750年に唐の将軍である高仙芝が石国(タシケント、シャーシュ(チャーチュ))に侵攻したためにイスラム帝国(アッバース朝)に支援を求めたことによる。
この地域は以後サーマーン朝の支配を受け、11世紀にカラハン朝に征服されてからはテュルク化も始まる。カラハン朝時代は有力王族の所領として、1210年頃にホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって西カラハン朝が滅ぼされてからはその支配下となり、ムハンマドは首都をウルゲンチからサマルカンドへ移した。
サーマーン朝(873年から999年)Samanid dynasty
9世紀後半、中央アジア西南部のトランスオクシアナ(マーワラーアンナフル)とイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系貴族がアッバース朝から自立してサーマーン朝が成立し、ブハラは10世紀の末まで続いた王朝の首都となった。
中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられ、ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。
ホラズム・シャー朝(1077年-1231年)
ホラズム・シャー朝は、セルジューク朝に仕えたテュルク系のマムルーク(奴隷軍人)、アヌーシュ・テギーンが、1077年にアムダリア川下流域のホラズム地方(その30年ほど前まではガズナ朝の領土)の総督に任命されたのを起源とし、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)で都はウルゲンチ、後にサマルカンドが都となった。
しかし、十字軍戦争の影響を受けてシリア経由路が閉鎖された結果、インドから黒海に至る交通路を占めたホラズム・シャー朝の首都として繁栄していたサマルカンドは1220年、モンゴルによって徹底的に破壊され、人口の3/4が殺されたという。
石国-タシュケント Tashkent
タシケントはソグド語・ペルシャ語で、「シャーシュ(チャーチュ)」、アラビア語で「シャーシュ」、中国では『後漢書』に石国とと呼ばれた。
10世紀末頃カラハン朝から「タシュケント」の名が現れ、1214年にはホラズム・シャー朝に、1219年にはチンギス・ハーンにそれぞれ破壊される。しかし、ティムール朝、そしてシャイバーニー朝によって町は再建された。
1809年、タシュケントはコーカンド・ハン国の支配下に入った。当時、人口は10万人を越えてロシアとの交易で栄える経済都市となった。
オトラルの悲劇(1218年)-モンゴル使節団惨殺 Otral Incident
オトラルは、現在のカザフスタン南部、スィル川中流の右岸、支流アリス川との合流点近くに位置する。12世紀にカラキタイ(西遼)の支配下となり、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドがカラキタイを破りスィル川方面まで勢力を拡大し、1210年、オトラルはにホラズム・シャー朝に征服された。
同時に、モンゴル帝国のチンギス・ハーンがカラキタイ(西遼)の旧領を併合し、オトラルはモンゴルとホラズム・シャー朝の国境の最前線となった。
1218年、モンゴル帝国がホラズムへ派遣した通商使節団がオトラルに入城したとき、オトラルの総督イナルチュク(城主)は宝物の多さに目が眩み、これを情勢偵察を目的とする間諜(スパイ)と断定し、ホラズム王・アラーウッディーン・ムハンマドの同意を取り付け通商団450人全員を惨殺、商品を略奪した。
通商団の中にいたインド人が処刑から逃れてオトラルを抜け出し、この事件をチンギスハーンに伝えた。当時、東アジアの国際慣例では使臣を殺してはならないことになっていたので、チンギス・ハーンは怒りに震えた。
この報を受けたチンギス・ハーンは報復を目的として1219年にホラズム・シャー朝への侵攻を開始し、緒戦においてオトラルはチンギスの次男チャガタイが率いるモンゴル軍の包囲を受けた。
チンギス・ハーンのホラズム侵攻(1219年)-アフラシヤブの破壊
1219年、チンギス・ハーンはモンゴル高原を弟テムゲ・オッチギンに任せ、ホラズム・シャー朝への遠征を開始した。モンゴル軍はオトラルに到着すると、第一次対金戦争の時と同様全軍を三つに分け、ホラズムへ侵攻した。
モンゴル軍の他の部隊はオトラルを包囲したままスィル川を越えてトゥーラーン(現在のウズベキスタンなど)に入り、サマルカンドなどの諸都市を攻撃したためオトラルは前線で孤立し、半年近くに渡った包囲の末に食料の不足から戦意を喪失し、モンゴル軍に降伏した。
住民は捕虜として城外に引き出され、堀と城壁が破壊され、城内には火が放たれた。モンゴル帝国の遠征のきっかけをつくった総督イナルチュクはチンギス・ハーンの面前に引き出され、目に溶かした銀を流し込まれて殺された。
チンギスハーンの征西 1219年から1222年
1218年、カラ・キタイ(西遼)がほぼ自滅に近い形で滅び、その多くがモンゴル帝国の領土になると、両者は直接領土を接することとなった。同年、ホラズムの東方国境近くのオトラルで太守イナルチュクによってチンギス・カンが派遣した通商団が虐殺され、この事件の報復を理由にしてモンゴル帝国はホラズム・シャー朝への遠征を決定したといわれる
13世紀にモンゴル帝国によって行われた征服戦争で、1219年から1222年まで行われた。一連の戦闘によってモンゴル帝国は飛躍的に領土を広げた。
ティムール朝の勃興 1370年から1507年
ティムール王朝は、中央アジアに勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、1370年から1507年の間に中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝である。その最盛期には、北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及んだ。ティムールは30年間でモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。
ティムール王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族、チンギス・ハーンの出たボルジギン氏と同祖の家系を誇る名門、の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。
父の代までに零落していた没落貴族の息子ティムールであったが、1360年、東チャガタイ・ハン国(モグーリスタン・ハン国)のトゥグルク・ティムールが西チャガタイ・ハン国に侵攻し、一時的にチャガタイ・ハン国の東西統一を成し遂げると、ティムールはこれに服属してバルラス部の旧領を回復した。
トゥグルク・ティムールが本拠地の東トルキスタンに帰ると、ティムールは東チャガタイ・ハン国から離反し、西チャガタイ・ハン国の諸部族と同盟と離反を繰り返しながら勢力を広げ、1370年までにトランスオクシアナの覇権を確立した。彼はチンギス・ハーンの三男オゴデイの子孫ソユルガトミシュを西チャガタイ・ハン国のハンとして擁立し、自身はチンギス・ハーンの子孫の娘を娶って、「ハン家の婿婿(アミール・キュレゲン)」という立場においてマーワラーアンナフルに住むチャガタイ人の諸部族の統帥権を握った。
ティムール朝王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を創建した